2022年3月18日 (金)

ウクライナ

 ドニエプル川は60年ほど前、中学の地理の試験で懸命に覚えた川の名である。北ロシアに源を発し、ベラルーシを越えてウクライナを縦断。黒海に注ぐ全長2200余キロに及ぶ大河である。豊かな水は、美しい自然と流域に広がる多くの都市の発展を支えてきた。

 ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの二大俳優が演じたイタリア映画「ひまわり」は、東京に出張の折などに、古い名画をかけていた当時渋谷にあった名画座で何度も観た。広大なひまわり畑と戦争で引き裂かれた男女の悲しい運命。印象的な作品だった。

 1970年制作のこの映画は、旧ソ連から独立する前のウクライナのヘルソンという街で撮影された。ヘルソンはキエフの南500キロ、ドニエプル川の河口に広がる。いまもウクライナの国花ヒマワリが、地平線の彼方に広がるという。

 ドニエプル川、「ひまわり」、ソフィア・ローレン・・・。どれも懐かしく、ロシアによるウクライナ侵攻は、それらをズタズタにしてしまった。「(文明の最も進んだ)ヨーロッパのど真ん中で、毎日たくさんの命が奪われている」(ゼレンスキー大統領の演説)。国際社会で大きな地位を占める大国が、こんなむごいことをやっているのだ。

 埼玉県の菅原神社に、わがやしろも菅原道真公をお祀りしていることに縁を感じてウクライナ語版の御朱印をお願いした(ブログ社務日誌参照)。いただいた御朱印には道真公ゆかりの梅の花が押されている。わがやしろの境内には梅の花が咲き出した。梅はあらゆる花に先駆けて春を告げる花である。ウクライナに一日も早く平和な春の訪れんことを。

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菅原神社の御朱印
英語版 Stand with Ukraine(ウクライナとともに)  
ウクライナ語版 Слава Україні!(ウクライナに栄光あれ!)
         

2021年2月 6日 (土)

遅い初詣

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正月が明けひと息ついたころ、毎年かかってくる2本の電話があります。
どちらも年配の女性。

「春になって暖かくなったら、帰ってきた息子に連れてきてもらって今年のお参りに行こうと思います。破魔矢を取っておいていただけませんか」と。
 そして雪が解け、暖かな日差しに花が開きはじめたころ、息子さんに手を貸してもらいながらゆっくりと階段を上ってお参りにいらっしゃいます。
 とても美しい “初詣” の光景。
 

もうひとつは

「娘がきたら郵便局にいってもらいますので、手紙が届いたら御札を送ってほしい」というもの。
そのあと丁寧なお手紙を添えた初穂料が届きます。
かつてこの近くにお住まいになっていたとのこと。

今は遠方で暮らしておられる方が、心を飛ばして新年のお参りにいらして下さるような気がして、こちらも、今はカタクリの花が咲いています、今年は梅の花が遅かったなど境内の様子を添えて御札をお送りしています。
御札は届いた先で、毎年丁寧にお祀りされていることでしょう。


「櫛田神社はいつまで初詣をやってますか」
「御守はもうありませんか」
今年はこういった問い合わせがたくさん入ります。
コロナや大雪の影響で初詣できなかった方なのでしょう。
「どうぞいつでもお参り下さい。なくなってしまうものもありますが、御守も縁起物も一年中受けていただけますよ」とお答えしています。

初詣は、心を新たに神さまにその年初めてのお参りをすること。
どうぞあまり季節など気になさらずにお参り下さい。
心を込めて神さまに向き合う気持ちは神さまにしっかり伝わり、よい初詣になるでしょう。

(今回は権禰宜が担当しました)

2020年11月 5日 (木)

雪光風火

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天降ります 遠津御祖の神奈備に 今様神樂響き渡りぬ―

10月末、やしろで催した新曲完成披露コンサート。それを祝い、富山県内のある神社宮司が寄せた一首である。氏は最前列で鑑賞し、「素晴らしい曲だ」を連発した。

曲は「櫛田神社の四季 組曲雪光風火 ~ステンドグラスに映える神在杜~」(中原達彦作曲)。演奏はヴァイオリニスト大迫淳英氏が担当した。大迫氏は音旅演出家として東急のTHE ROYAL EXPRESSのテーマ曲をプロデュース。これまでにもJR九州「ななつ星in九州」など多くの音楽演出を手掛けている。世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」をテーマにした音楽物語「祈りの島」などの優れた演奏でも名高い。よくコンビを組む中原氏とともに気鋭の音楽家である。

やしろは、台風との戦いの歴史を繰り返してきた。何度となく数十本、数百本の大木が倒れ、下敷きになった建造物にも大きな被害が出た。直近は平成16年10月。無残な姿に変わり果てた境内の光景が記憶に残る。いまにも倒れそうな危険な杉を処分し、落葉樹を植えた。10数年経って、森は落ち着いてきた。「美しい鎮守の森を残したい」。その願いが組曲へと駆り立てたのである。

曲はピアノが奏でる太鼓の音で始まる。雪の中、1年の息災を祈る初詣、光を浴びて生命を燃やす若葉、風に鳴る風鈴と戯れる参拝者、神輿や獅子が火の中を疾走する秋祭り。境内に併設されているステンドグラス美術館の色とりどりのガラスに映る、刻一刻姿を変える森や季節ごとの情景をヴァイオリンとピアノとチェロが鮮やかに描き出す。美しく刺激的なメロディーは、神さまを称える曲にふさわしい。

クラシック音楽を身近に、しかも自分たちの氏神様がテーマの新曲を聴いた氏子たちから感嘆の声が上がった。県外から聴きにきた人もいた。素晴らしい装丁のCDも出来上がった。少しでも多くの人に聴いてもらいたいと、待合室に音響設備も計画中だ。
「今様神樂」は、氏子みんなが神さまと森を守る決意を再確認する大きなきっかけとなった。

2020年9月29日 (火)

国勢調査の父

令和初めてとなる今年の国勢調査は21回目。第1回からちょうど100年を迎えます。
わが国初めての国勢調査の指揮をとったのは、宮司が奉仕する藤巻神明宮の氏子であった牛塚虎太郎氏でした。
氏は戦争の影響で実現に至らなかった1940年の東京オリンピック招致にも尽力した人で、昨年の大河ドラマ『いだてん』にも登場しました。
宮司の父が学生時代、氏の官舎に書生として下宿したご縁で、氏の書が残っています。


   *     *     *

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寝室の窓を開けたら、網戸の網目をくぐってスーッと秋が入ってきた。
<香料よりもいい匂の初秋の山の朝風>(高村幸太郎の詩『山からの贈物』の一節)だ。
寝苦しかった夜の空気を冷ましてくれた。

わが家近くの森。例年だと、秋が近づくにつれヒグラシが鳴き、次いでツクツクホウシが鳴いて夏を締めくくる。今年は違った。盛夏に鳴くセミから一足飛びにツクツクホウシに。線の細そうなヒグラシ、猛暑に耐えかね死んでしまったか。

その森も涼気を帯び10月。
1日、国勢調査がある。旧大門町藤巻生まれの牛塚虎太郎は、国勢調査実施に努力した人だ。「どんな議論でも事実を基礎としなければだめだ」。内閣統計局長として、実施把握の必要性を強く説く氏の記事が当時の新聞に載っている。

氏が指揮した第一回調査(大正9年)から、90年。わが国が本格的な人口減少社会となって初となる今回の調査は、人口転換期の国・地方の施策を進める上で示唆に富んだものとなるはずだ。

氏の残した書が手元にいくつかある。その一つ「発奮誓神明」(発奮を神明に誓う)。東京市長を終え衆院議員になるまでの昭和15年に書かれた。夏が去りやがて深まる秋。何をこの秋に誓う。

(2010年10月)「アケビと道草」から


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「神如在」(神在ますが如し)。
藤軒虎 書 とあります。 

 


 

2020年4月 4日 (土)

太刀山と漱石

今場所から決まり手が七十手から八十二手になった大相撲。初日にもうそれが出た。モンゴル出身の幕下旭天山が、魁松山に決めた「送り投げ」だ。モンゴル相撲でよくかけていたそうで、「必死にとっているうちに自然に出た技」という。

相撲が大好きだった夏目漱石は「相撲はアート(芸術)だ」と言った(出久根達郎著『漱石先生とスポーツ』)。
「相手がかうやつたら、よしかうしてやると、頭の中で考へてやる仕事ではない。瞬間に、まったく本能的に相手に押し掛けて行くのである・・・・・・」。
これでいくと旭天山の技はまさにアートだ。

漱石が、富山の生んだ名横綱太刀山をひいきにしていたのは有名な話。
<四十五日の鉄砲>(つまりひと月半=一突き半)と呼ばれた強烈な突っ張りや豪快な呼び戻しで知られた太刀山。力任せの相撲は芸術的というにはほど遠い。

そんな太刀山を漱石はなぜ好きだったのか。太刀山も漱石も胃が悪かった。「同病相哀れむで、太刀山に自分を重ね合わせていたのだろう」というのが出久根さんの説だ。

経ち井山というしこ名は、板垣退助が「立山」から命名したことはよく知られている。わが郷土からも雄々しい立山や太刀山に負けない力士よ、出でよ。
(2001年1月10日)

 

2020年2月24日 (月)

ノムさんを偲んで

 「沙知代はん、ホンマに怒りまっせ」と、阪神ファンがテレビのマイクに怒鳴っていた。チームが弱いくせに、こんな不始末(脱税)で球団の名まで汚しよって、ということだろう。いくら熱烈な阪神ファンでも夫、野村克也監督の続投を求める声はなく、未明の退団表明となった。

 <ムース>。のっそりしていながら外敵に鋭く目を配り、いざというときには素早く動くアメリカヘラジカのことだ。野村氏の現役時代のあだ名だった。大リーグ、サンフランシスコ・ジャイアンツの往年のスター、ウィリー・メイズが、利口な野村氏と抜け目ないこの獣を重ね、名付けたという(浜田昭八著『監督たちの戦い』)。確かに野村氏は現役時代も監督時代もスキがなかった。

 

 ちゃっかり沙知代夫人はこのムースを、自分がオーナーを務める少年野球チームに拝借した。「港東ムース」。抜群のネームバリューだったろう。その点では沙知代はんも抜け目ないが。

 

 <ID野球の権化><野球は頭と言葉のスポーツ、の実践者><再生工場>・・・・・・。数々の輝かしい勲章を冠せられた賢いムースも、夫人の愚行は見抜けなかったか。野村野球が消える。月見草の花が日陰でひっそり枯れるように。

(2001年12月6日 『アケビと道草』から)

 

この後も多くの後継者を育て、ぼやきを茶の間に運んで、プロ野球という世界に留まらず、私たちを楽しませてくれました。
野村さんを偲んで、かつて記述した原稿から掲載しました。

2020年1月28日 (火)

髙橋久義さんに捧ぐ

「これで今夜もまたうまい酒が飲めますちゃ」。
境内の木の枝打ちや杉の丸太を切る作業を終えたあなたは、日焼けした顔をほころばせながらよく言ったものです。一所懸命働いて汗を流し、好きな酒を飲む。元気なころのあなたの日常でした。 

けがや病気で入院しても、退院するときには以前よりさらに元気になって戻ってくる、とさえ言われたあなた。
正月に息子の久和さんから「オヤジを診察に連れて行ったら、だるくなって病院の廊下にしゃがみこんでしまった、朝起きがけに訳の分からないことを口ばしるようになった」と、あなたの近況をうかがいました。でも、今年の冬はあったかだから、また不死鳥のようによみがえるかもと思っていた矢先の訃報でした。 

昨年の今ごろ、奥さんを車椅子に乗せて介助に明け暮れておられたあなた。
奥さんが亡くなり、そんな日常にぽっかり穴があき、生きるハリが萎えてしまったのか、やはり89歳という高齢による衰えに、いくらあなたでも太刀打ちできなかったのか、と想像しています。

責任役員として33年間、崇敬会長として15年間。大きな声を張り上げ、みんなの先頭に立って櫛田神社のお世話に携わっていただきました。春秋の例大祭や初詣などの陣頭指揮はもとより、自ら機械を操っての除雪や薪割り、危険が伴う高所の枝打ちや植樹。エネルギッシュなあなたはゆっくりする間もないほどでした。初詣でたむろする暴走族に、紋付き羽織姿で「おまっちゃ何しとる!」と大声で喝を入れ、お宮を守ろうとする並々ならぬ気迫が若者たちを蹴散らしたこともありました。 

16年前の平成16年10月20日、台風23号が襲った時のあなたの的確で素早い指揮ぶりは忘れることができません。
300本もの杉の大木が倒れ、境内を埋め尽くし、神輿堂が下敷きになり、灯籠が折れ、玉垣が破壊され、想像を絶する光景にただ絶句するだけでした。正月までわずか。「初詣に何とか間に合わせよう」というあなたの号令を合い言葉にみんな立ち上がり、よく動き、ようやく新年を迎えることができました。

台風がくるたび、杉の倒木は大きな被害をもたらします。台風23号の被害をきっかけに時間をかけて相談した結果、杉の大木を伐採することになりました。伐採は氏子にとってつらいことでしたが、あなたは苦渋の決断をされました。台風の始末、それに続く伐採という大事業はあなただからこそ為しえたことです。

私の母親が亡くなったとき、あなたは肩に食い込むような重い卒塔婆を担いで社務所から山の墓場までの雪道を、葬列の先頭で背筋を伸ばして歩かれた。我が家に孫が生まれた時「これで後継はバンバンですちゃ」と、記念にドングリの木を40本、境内に植えてもらったことも。何から何までお世話いただきましたが、情に厚く元気はつらつと動いておられた姿を懐かしく思い出しています。

先人たちが伝えてきた在所の習わしや、人々が昔から大事に育んできた考え方も教わりました。
毎年の新嘗祭はあなたが育てた赤米とユズを直会にいただくのが恒例でした。当時まだ栽培が珍しかった赤米をおにぎりとおかゆにしてユズ味噌を添えて参拝者みんなで味わったときのこと。「かつて家に古米を持っていることを誇りにしていた時代があった」というあなたの話にみんなが聞き入りました。今は新米一辺倒の時代ですが、蓄える米を持つ余裕がなく、ひもじい思いをしていた昔、古米が家にあることは、家計にそれだけゆとりがあることの証拠だったというのです。

人と自然との関わりの話もいっぱい聞きました。小さいときから野や山や川をかけずり回り、土の匂いをかぎながら育ったあなたならではの話です。生き生きとした人々の暮らしぶりがうかがえ、私にとっても神さまと大自然の営みの共生を旨とする「神社神道のこころ」を大いに感じとることができました。 

あなたは15歳のとき、戦争でお父さんを亡くしました。21で父を亡くした私に、時々酒の席などで「お互い、若い時分にオヤジが死んでしまい、苦労することもありますちゃね」と話しかけられました。その言葉に私は「決して弱音など吐かず、お互い氏神護持に頑張りましょうや」という決意が込められていると感じていました。
「大自然に抱かれながらお神酒を酌み交わし、一人一人温かい心を育んで氏神さまをみんなでしっかりお守りする」。あなたが日ごろよくおっしゃっておられたことですが、これからも氏子が心一つにして氏神さまのために一所懸命尽くす覚悟を今、新たにしています。

大風が吹いた後、大雪が降ったあと。お宮の屋根が傷まなかったか、樹木は大丈夫だったか、と気に掛け、しょっちゅう足を運ばれたおやしろ。久義さん、あなたが懇ろに手をかけた社殿やたくさんの木々は、雪のない暖かな冬の中で静かに春の訪れを待っています。

 

令和二年一月二十五日    

櫛田神社宮司 宮川真清

2019年10月 7日 (月)

金田正一さん

400勝投手金田正一さんが亡くなった。
「カネやん」に2度会った。73~76年のロッテ監督時代、ちょうど今ごろの季節だ。

その日の朝、当時新聞記者だった小生に、高岡のゴルフ場から突然電話が入った。
「金田さんが今着いた。会いにきませんか」。
ゴルフクラブメーカーも経営していたゴルフ場の社長は、ゴルフ好きの金田さんをメーカーの顧問に起用。その日は金田さんをモデルにした翌年の宣伝用カレンダーの撮影日だった。

ところが・・・。金田さんが前夜,汽車で高岡に向かったとき、ペナントレースはまだ何試合か残っていた。ナイターの指揮はヘッドコーチに任せてきたのだ。マスコミが放っておくまいことか。

「金田、職場放棄」「金田、私事優先」。
スポーツ紙の朝刊は大騒ぎだ。

金田さんに会うなり、「えらい騒ぎになってますね」と持ちだした。「何の話?」と最初はとぼけていた金田さんだが、途中から顔がこわばり猛然と怒り出した。
「プロは優勝しない限り2位も最下位も一緒じゃ。書いた社とは今後一切口をきかん」。

翌年、同じ件でやって来た金田さんに再び会った。
「お久しぶり。その後元気?」。
小生の手を両手で包み、満面の笑顔だ。

小生のことなど恐らく記憶になかったはず。それを10年来の知己にでも会ったように、しかもわざとらしくなく、いとも自然にさりげなくやってのける。彼についてまわる気性の激しさや荒っぽさとは違う何気ない心遣いを感じ、いい気分になったことを思い出す。

お宮ですれ違う参拝客。
「こんにちは」「お天気がよかったのでお参りに来ました」。
さりげなく交わす言葉が心地よい。
自然に神さまに頭を下げ、すれ違った人には挨拶をする。こうしたさりげない営みが自然に行われる日常であったらいい。

2019年9月 6日 (金)

国勢調査の父

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寝室の窓を開けたら、網戸の網目をくぐってスーッと秋が入ってきた。
<香料よりもいい匂の初秋の山の朝風>(高村光太郎の詩『山からの贈物』の一節)だ。
9月15日の朝。寝苦しかった夜の空気を冷ましてくれた。

わが家近くの森。例年だと、秋が近づくにつれヒグラシが鳴き、次いでツクツクホウシが鳴いて夏を締めくくる。今年は違った。
盛夏に鳴くセミから一足飛びにツクツクホウシに。線の細そうなヒグラシ、猛暑に耐えかね死んでしまったか。

その森も涼気を帯び10月。
1日、国勢調査がある。旧大門町藤巻生まれの牛塚虎太郎は、国勢調査実施に努力した人だ。
「どんな議論でも事実を基礎としなければだめだ」。内閣統計局長として、実態把握の必要性を説く氏の記事が当時の新聞に載っている。

氏が指揮した第一回調査(大正9年)から90年。わが国が本格的な人口減少社会となって初となる今回の調査は、人口転換期の国・地方の施策を進める上で示唆に富んだものとなるはずだ。

氏の残した書が手元にいくつかある。その一つ「発奮誓神明」(発奮を神明に誓う)。東京市長を終え衆院議員になるまでの昭和15年に書かれた。夏が去りやがて深まる秋。何をこの秋に誓う。
(2010年10月)

『アケビと道草』から

大河ドラマ「いだてん」に登場している牛塚虎太郎氏は国勢調査実施に尽力した人でもある。
奇しくも来年は令和初の国勢調査。第一回調査からちょうど100年を迎える。
総務省統計局の国勢調査のホームページには「いまを知る。その積み重ねが、未来をつくってきた。」と記されている。

社務日誌もご覧ください。
http://morinosijima.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-2e63bc.html

 

2019年7月 5日 (金)

土用

 土用は季節の変わり目のことをいう。四季それぞれに土用はあるが、ふつうは夏の土用(7月19~8月7日ごろ)を指す。土用波、土用干し・・・。暮らしになじんだ言葉や習慣が残っていることでも分かる。

 夏バテを防ぐために昔の人は食べ物に大変気を配ったようだ。「丑の日」にウリ、梅漬け、牛・馬の肉など「う」のつくものをよく食べた。丑にあやかり、暑さとうまく折り合いをつけようとしたのか。ヨモギの入った餅も欠かさなかった。当時、餅ははらわたになると信じられたようだ。

 だが五臓六腑を鍛えるにはやはり昔もウナギが一番だったらしい。大伴家持が夏バテに苦しむ友にウナギを食べることを勧める歌が残っていたり、平賀源内が土用にウナギを食べる習慣をつくったという説があったり。ただ、この時期のウナギはおいしくないという話がある。えさをたっぷりとった冬眠前や、9~10月にかけて産卵のために川を下る脂ののったものにはかなわないというのだ。真偽のほどはどうなのか。

いよいよ夏本番。食べもので乗り切るもよし、暑さとうまく付き合って過ごしたい。

 

 

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