「これで今夜もまたうまい酒が飲めますちゃ」。
境内の木の枝打ちや杉の丸太を切る作業を終えたあなたは、日焼けした顔をほころばせながらよく言ったものです。一所懸命働いて汗を流し、好きな酒を飲む。元気なころのあなたの日常でした。
けがや病気で入院しても、退院するときには以前よりさらに元気になって戻ってくる、とさえ言われたあなた。
正月に息子の久和さんから「オヤジを診察に連れて行ったら、だるくなって病院の廊下にしゃがみこんでしまった、朝起きがけに訳の分からないことを口ばしるようになった」と、あなたの近況をうかがいました。でも、今年の冬はあったかだから、また不死鳥のようによみがえるかもと思っていた矢先の訃報でした。
昨年の今ごろ、奥さんを車椅子に乗せて介助に明け暮れておられたあなた。
奥さんが亡くなり、そんな日常にぽっかり穴があき、生きるハリが萎えてしまったのか、やはり89歳という高齢による衰えに、いくらあなたでも太刀打ちできなかったのか、と想像しています。
責任役員として33年間、崇敬会長として15年間。大きな声を張り上げ、みんなの先頭に立って櫛田神社のお世話に携わっていただきました。春秋の例大祭や初詣などの陣頭指揮はもとより、自ら機械を操っての除雪や薪割り、危険が伴う高所の枝打ちや植樹。エネルギッシュなあなたはゆっくりする間もないほどでした。初詣でたむろする暴走族に、紋付き羽織姿で「おまっちゃ何しとる!」と大声で喝を入れ、お宮を守ろうとする並々ならぬ気迫が若者たちを蹴散らしたこともありました。
16年前の平成16年10月20日、台風23号が襲った時のあなたの的確で素早い指揮ぶりは忘れることができません。
300本もの杉の大木が倒れ、境内を埋め尽くし、神輿堂が下敷きになり、灯籠が折れ、玉垣が破壊され、想像を絶する光景にただ絶句するだけでした。正月までわずか。「初詣に何とか間に合わせよう」というあなたの号令を合い言葉にみんな立ち上がり、よく動き、ようやく新年を迎えることができました。
台風がくるたび、杉の倒木は大きな被害をもたらします。台風23号の被害をきっかけに時間をかけて相談した結果、杉の大木を伐採することになりました。伐採は氏子にとってつらいことでしたが、あなたは苦渋の決断をされました。台風の始末、それに続く伐採という大事業はあなただからこそ為しえたことです。
私の母親が亡くなったとき、あなたは肩に食い込むような重い卒塔婆を担いで社務所から山の墓場までの雪道を、葬列の先頭で背筋を伸ばして歩かれた。我が家に孫が生まれた時「これで後継はバンバンですちゃ」と、記念にドングリの木を40本、境内に植えてもらったことも。何から何までお世話いただきましたが、情に厚く元気はつらつと動いておられた姿を懐かしく思い出しています。
先人たちが伝えてきた在所の習わしや、人々が昔から大事に育んできた考え方も教わりました。
毎年の新嘗祭はあなたが育てた赤米とユズを直会にいただくのが恒例でした。当時まだ栽培が珍しかった赤米をおにぎりとおかゆにしてユズ味噌を添えて参拝者みんなで味わったときのこと。「かつて家に古米を持っていることを誇りにしていた時代があった」というあなたの話にみんなが聞き入りました。今は新米一辺倒の時代ですが、蓄える米を持つ余裕がなく、ひもじい思いをしていた昔、古米が家にあることは、家計にそれだけゆとりがあることの証拠だったというのです。
人と自然との関わりの話もいっぱい聞きました。小さいときから野や山や川をかけずり回り、土の匂いをかぎながら育ったあなたならではの話です。生き生きとした人々の暮らしぶりがうかがえ、私にとっても神さまと大自然の営みの共生を旨とする「神社神道のこころ」を大いに感じとることができました。
あなたは15歳のとき、戦争でお父さんを亡くしました。21で父を亡くした私に、時々酒の席などで「お互い、若い時分にオヤジが死んでしまい、苦労することもありますちゃね」と話しかけられました。その言葉に私は「決して弱音など吐かず、お互い氏神護持に頑張りましょうや」という決意が込められていると感じていました。
「大自然に抱かれながらお神酒を酌み交わし、一人一人温かい心を育んで氏神さまをみんなでしっかりお守りする」。あなたが日ごろよくおっしゃっておられたことですが、これからも氏子が心一つにして氏神さまのために一所懸命尽くす覚悟を今、新たにしています。
大風が吹いた後、大雪が降ったあと。お宮の屋根が傷まなかったか、樹木は大丈夫だったか、と気に掛け、しょっちゅう足を運ばれたおやしろ。久義さん、あなたが懇ろに手をかけた社殿やたくさんの木々は、雪のない暖かな冬の中で静かに春の訪れを待っています。
令和二年一月二十五日
櫛田神社宮司 宮川真清